愚かな蝶がひらり、ひらり。


―――――――――舞う。












座っていた椅子から一歩踏み出す。
騒がしくないよう庭とは反対側の海が見えるテラスに置かれた彼専用の場所。
そこを出て何処に行く気だ。
分からない。だが、何処かに行きたいのだと宙を見る。
土の色にも、空の蒼にも、焦点を合わせない中途半端な視点。
聞こえるだけの声は賑やかで楽しげで。
けれどそれは自分とは一線を隔した場所の音だ。

「キラ」

振り向けば柔らかく笑う人が後ろに居た。
彼の行動を見透かして、引き止めるように、桜色の髪がふわりとゆれる。

「お夕飯の用意ができましたわ」
(あ、呼びに来てくれたんだ。ありがとう)
「どういたしまして。あ、お味噌汁はわたくしが作りましたの」
(そう、楽しみだな)
「お口に合うと良いのですけれど」

ニコニコと笑う彼女とだけ会話が成り立っている。
彼には言葉が無い。

ストライクの中で死に、フリーダムの中で生きた彼はいつの間にか言葉を失った。
言葉を奪われた子供は、家に帰ることも出来ずに、何処かに行くこともできずに。

地上に降りた花に縋って生きている。








彼女が作ったというお味噌汁は、少し味が薄かったり具が不思議な気がしたけれど普通においしかった。料理に慣れないという彼女が作るものは、いつも見た目はとても綺麗でまるで芸術品。
彼女自体が一つの芸術品であるかのように綺麗なもので、綺麗なものは綺麗なものしか生み出さないのだといつも思う。

―――――――そんなことは無い、と彼女はきっと言うけれど。

花に縋るのは楽だけれど駄目だと思う。
息苦しく思うことなんてないのに、どこか窮屈に思う。

(……なんて失礼な奴)

そういう人間に構っていられるほど彼女は暇ではないはずだ。
彼女を必要とする人はいくらでもいるのに、彼のために彼女はここにいる。
彼女は孤児を集め、育てることに自分で決めた。それもラクス・クラインとして表立った地位で指示するだけではなく自分の手で世話をすることに。
けれど元々はマルキオ様がやっていたことだ。必要なことであっても彼女向きの仕事ではない。
役不足とは言わないが、家事をこなしながら子供を躾けられるような大人向きの仕事ではあって、お嬢様でその手の仕事は全く知らない彼女が、他にできることを差し置いて今この時勢の中でやるのに最適な仕事とは多分言えない。

キラも孤児といえば孤児だろう。彼女と同じ歳ではあるけれど。
母も居る。父も居る。
けれどそれは本当ではなく、愛されているという確固たる自信が揺らいだ。
普通の生まれならそのくらいで今までの16年間を否定なんてしない……と思う。
ただの子供でも愛してくれただろうか。
本当は気味悪く思っていたんじゃないだろうか。
今は分からない。
今は聞けない
――――――この口から言葉が飛び出すまでは。

此処に居る誰よりも孤独な子供。
自己憐憫だ。
可愛そうね、と多分人はいう。
本当にそうだっただろうか。
救いは無かったか。一緒に戦ってくれた友がいてそれでも孤独だというだろうか。
多分、それほど自分は可哀想ではないのだ。
なら、どうして言葉を失ったのか。

見上げる夜空は何処までも遠くて綺麗だ。
あの何処かに彼女は居るのだろうか。
人は死ぬと星になるのだと言う。
今の自分を見て、彼女はなんと言うだろう。

”馬鹿ね”

そう呆れたように罵倒する気が、した。
その顔を求めてふらふらと一歩、二歩、三歩。

――――――ギシリ。
床が鳴る。
そこはもう彼の領域ではない。
子供たちも今はベッドの中でどこにも居ない。

四歩、五歩、六歩……
………十歩、十一歩、十二歩…………

――――――サクリ。
砂を踏む音。靴越しに伝わる感覚が変わる。
海が近くなった。水の中に足を踏み込もうとして。

腕を掴まれる。
そのまま引かれて背後から抱きかかえられるように捕まった。
抱きすくめられたその広い胸の知らない大きさ。
知らない熱。
知らない腕。

――――――――――誰)

声は出ない。