愛してほしいなんていわないから。
そんな贅沢は望まないから。
せめて……
自分の前では笑って欲しかった。
小さく溜息をつく。
内心でどう思っていようとも言葉に出せるような性格はしていなく、その小さな溜息にすべてが詰まっていた。
視線の先。
格納庫で整備したち相手に声を張り上げてくるくると動く茶色の髪で、一人違う色のつなぎを着た青年(ヒト)。
彼の顔には笑顔と言う仮面が張り付いている。
笑っていない、と思うのはレイが彼の過去を少し知っているからだろうか?
『僕はどこにもいられないんだ』
勝者が正義になるという。
けれどその正義もすべてではないとあの日知った。
戦争が終わってラウが死んだ。そうか、と思った。何も感じなかった。
ほんの少しの衝撃。
けれどそれは別段大きな感情にはならなかった。
何をしているのかは知らなかったけれど、何を憎んで何をしようとしていたかほんの少しは知っていた。
止めはしなかった。そうして帰ってこなかった。それだけのことだ。
その憎しみが正当だとしても、彼は正義になれなかった。
ギルに紹介されたその人は、戦争の直後だというのにニコニコと笑っていた。
ニコニコと、というのは御幣があるかもしれない。けれど穏やかにも見える笑みを浮かべて言った。
「好きに呼んで」
自己紹介するでもなくそう言った青年に困惑して、保護者となった男を見上げた。
「ギル……?」
「彼はキラだ。事情でしばらく預かることになったのだが……」
珍しく言葉を濁すような、躊躇うようなそんな逡巡の後、強引に話題を変えるような台詞を吐き出した。
「フリーダムは知っているかね?」
馬鹿にしていると取られても仕方のない質問だが、日頃の言動の所為かそうとは取らなかった。
ギルはいつも優しい。自分を馬鹿にすることなどありえない。
絶対的な信頼感がある。
「はい。 聞き及んでいますが……」
「彼はそのパイロットなのだよ」
顔を向ければニコニコと笑みを浮かべて答える青年に、生まれたのは反発心だった。
嫉妬もあったかもしれない。ラウが居なくなった今、ギルが全てで彼しか居なかった。
結婚していなく、レイ以外の扶養家族を持たないギルは自分を息子のように扱ってくれたと思う。
ここは最後の居場所なのに。
正義であるはずの彼が何故、へらへらと自分の場所を奪う。
ギルしか居ない自分とは違って、フリーダムのパイロットならば居る場所はいくらでもあるはずだ。
彼は勝者だ―――――もう一人の自分とは違い。
彼は英雄で、正義だ―――――平和をもたらした。
なのに何故……
向けられる感情すら何も気づかないかのように笑う青年にただ苛々した。
忙しい養父はあまり家には居ない。
彼が家に居なければこの屋敷に居るのは最低限の使用人と自分とキラ、それだけだから食事は二人だけでテーブルを囲むことが多い。
キラも自分もあまり外には出なかったから尚更その率は高かった。
時計を見てレイは本を閉じる。それから部屋を出て食堂へ向かった。
雨が硝子の窓を打つのを眺めながらキラを待つが、食事時になっても彼は姿を見せなかった。
ギルによろしくと言われた手前、放っておくわけにも行かない。
面倒だと思いながらそれでも外に出れば、案外早く見つかった。
窓の外。二階の踊り場から張り出したテラスの外。
人工的に設定された雨の中に居るのを見て瞬間的に顔を顰める。
どうしようと、何をしようと、個人の勝手ではあるが、入ってきたときに床が濡れることも風邪を引くことも考えないのだろうか。
(……なんて人だ……)
愚かなことをしている青年を義務にのっとって呼び戻そうと近づく。硝子が無くなって少し見やすくなった彼の顔に一瞬足を止める。
空を見上げる彼の顔は半分も見えない。
けれど顔を流れ落ちる其れが雨なのか、別のものなのか判別がつかない。
そう思えるくらい真剣な顔をしていた青年に驚く。
何故、何に、涙を向ける。
聞いてみたい衝動は、けれど彼の性格によって口にされはしなかった。
「キラ」
気づいているのかいないのか、別段気配を殺したつもりは無いが、振り返らない青年に向けて呼びかける。
「食事の時間だ」
「うん。わざわざありがとう」
瞬間的に出来上がった笑顔を見て。
「いや……これも義務だ」
――――――本当は笑っていないのか、と思った。
キラのことを考える事が増えた。視界に入れることも増えた。
あれは本当に雨だけではなかったのか。
多分そうだ。よくよく見れば自分が時に応じて浮かべるものと同じ種類の顔であることだと少し考えればわかる。
筋肉だけで作られた笑顔。
いつも浮かべられたそれはもはや笑顔の仮面。
正義とされ、英雄ともてはやされる人間がどうしてそんな仮面を被る必要があるのか。
思えば彼は初めから自分を否定していたのかもしれない。
名前すら名乗らなかったのは、自分を否定していたから、ならば。
呼べない名前。
現に、ファミリーネームはギルからすらも聞いていない。
キラという名前が本名であるかすらも本当は分からない。
ギルは政治家だから、必要ならば人に新しい名前を与えることくらいするだろう。
「珍しいね」
声は後ろから。
確かにここまで近づかれても声を掛けられるまで気づかなかったのは珍しいと自分でも思う。
何を、やっているのか。
いくら此処が自宅といえども、気を抜きすぎだ。
「君がぼーっとしてるなんて」
普段はあまり話しかけてはこない青年が笑顔の仮面を被って立っていた。
見れば見るほど何故だろう。苛々する。
胸の奥がチクチクと刺激されいたたまれない気分になる。
(……だから、なんなんだ)
この感情は。
考えるくらいなら聞いてしまえばいい。彼の心情を慮ってやる義理など自分には無いのだ。
「その仮面はどうしてですか?」
「え……?」
困惑したような青年の反応に我ながらなんてつたない言葉だと思った。感情のまま言葉を紡ぎだすなどどうかしている。
それでは伝わらないのが当然だ。
「あなたのそれは本気で笑っているわけじゃない。まるで仮面だ」
「なんで……?」
なんで分かったの、だろうか。
なんでそんなことを聞くの、だろうか。
どちらにしても明確な答えなど与えられはしないけれど。
小さく息を吐いた彼はとりあえず最初の質問に答えてくれるようだった。
「わからない…けど……これが習慣になっちゃったんだよ、きっと」
「どういう……?」
「僕は何処にも居られないんだ」
意味を問う前にキラはまた意味不明な言葉を乗せる。
「ここにいる僕は居てはいけない存在で、だから笑えないけどでも周りにみんなが居たときは笑わないと凄く心配するから……」
哀しそうな言葉に
「何故……」
どうしてだ、と思う。
それは怒りに近かった。
「あなたは勝者だ」
そうだ。フリーダムか勝者側で、見事にその思惑をやり遂げたではないか。
ラウが敗れたのとは反対に。
「戦争における勝者が正義で、英雄になる」
だから三隻同盟は英雄視され、厳しいお咎めも無かったではないか。
法律に照らせばそれは違法であったはずなのに。
英雄だから。正義だから。
そうでなくてはあまりに……あまりに……ラウが惨めだ。
けれど、うんと一つ頷いた彼は続ける。
「僕は僕の守りたいものを守って、戦って、生き残ったけど……」
でも、と笑って。
「正義じゃないよ」
綺麗に、綺麗に、けれど哀しく。
それは仮面ではなかったけれど、決して望んだものでもなかった。
そろそろか、と自分の仕事を終えたレイは先ほどとあまり変わらない状況の青年の元に跳躍する。
「キラ」
まわりの騒音に比べれば、大して大きな声ではないが、聞こえたのか忙しなく動いていた影が止まり、コックピットから頭がのぞいた。
「レイ、なに?」
完全にそこに辿りつくまでに飲み物を放る。
ゆるやかに飛んできたボトルを受け止めることに集中したのか、それを追ってレイがたどり着くまでに作業に戻らせないことに成功した。
「少し休憩したらどうだ?」
「ありがとう。でももう少し」
「無理して終わらせても意味が無いだろう」
「人が頑張ってるのに意味が無いとか酷いこと言うよね」
ジト目で見られて怯んだわけではないが、耳元に囁くように小さく声を落とし指摘する。
「……仮面が丸分かりだ」
「君も結構しつこいよね」
今はもうあっけらかんとそう流されるのは分かってはいたけれど、指摘せずにはいられない。
「自分が不幸ですって顔しててもしかたないし、仕事中に疲れてますって顔してたら駄目でしょ?」
そういう処世術を使うのは悪いことではない。
人間関係を円滑にしていくためにも必要なことではある。
不機嫌をばら撒く人間よりも穏やかな笑みをばら撒く人間のほうが好ましいのが当然だ。
それでも。
「あなたのは行き過ぎだ。見ていて疲れる」
「酷いな。結構癒し系だと思うんだけど」
本気でそうは思っているわけではないだろうに、茶化すようにそう言っておどける様に深い溜息を吐いて強引に手を引いてコックピットから引きずり出す。
軍人ではあるけれど、未だ少年の域をでない屈強とは言い難い自分にすら簡単に引きずり出されてしまうほどキラは軽い。
「馬鹿なことを言っていないで行きましょう」
仮眠室に連れて行っても、部屋に戻してもどうせ眠ったりはしてくれないだろう。
でもMSが見えるところにいたのでは気になるだけで休憩にもならない。
やはり食堂が無難だろうか。展望室という手もある。
いや、この時間ならばシンやルナマリアがレクルームに居るだろうそこに行ったほうがキラはくつろげるだろうか。
彼らの持つ学生気分の抜けない空気をキラが好んでみていることは知っている。
自分の持つ硬い空気はキラには窮屈だろう。人よりも事情を知っていることもある。性格も人を安らがせるようなものではないことは自覚している。
「レイ、君こそ眉間に皺」
手を引かれるまま歩き出したキラが反対の手を伸ばしてぐりぐりと皺を伸ばしてくる。
「……気難しいあなたがどこに行けば休憩を取っていただけるか考えていたもので」
「レイってやっぱり僕を誤解してるよね」
「他のクルーよりは正確に把握していると思いますが」
ほんとかなぁとキラは笑う。
それに少しならず無感動な自分の感情が刺激されて、つい意地を張るような台詞が出た。
「少なくともあなたの仮面が読み取れる人間はこの船の中には俺くらいだと思いますが?」
「そうだけどさ……僕、君が来てくれた時点で休憩なんて入ってるよ」
それがただ単に作業を中止しただけの休憩を指しているわけではないことなんてレイにはすぐにわかったけれど。
「本当……ですか?」
「本当だよ。レイと居るとなんでか顔の筋肉まで休憩モード入るんだから」
君こそ気難しいんじゃないと言いながら、すぐに真面目なだけかと自己フォローしてニコリと笑顔を向ける。レイには冗談ですまない真実味のあるその形容詞が傷つけると思ったのだろう。
そんなことは正直どうでもよかった。
その前の言葉の方がレイには気を引かれるものだ。
シンやルナやヴィーノやヨウランではなく自分と一緒であることに安らぐのだと解釈してもいいのだろうか。嘘か本当かは分からないけれど今の言葉の意味は多分合っていて。
事情を多少知っていて、隠す必要がないとかそんな理由でも良いから。
今穏やかに笑うそれは本物の笑顔であると思いたかった。