文字を追う視界が歪む。コーディネイターらしい素晴らしいスピードで動いている周りとを一線を画するようにそこだけ画面はスクロールしていなかった。
眠い時は頭にまったくはいらない。それはカレッジで勉強している時とまったく同じだ。
頭が次第に垂れていくがやばい、という意識はまったくなかった。これが初めてというわけでもないし課題を後で提出できれば問題ない。それよりも今はこの頭痛から開放されたかった。
寝不足の頭でそんなことをぼんやりと思い。
「……シン・アスカ。」
あーあ、と隣で仰ぐルナマリアの声も怒る教官の声もお休みモードに突入したシンの脳は認識しなかった。
moratorium
「……ありえない……」
がしがしと髪をかき混ぜたい衝動に駆られ、天井を振り仰いでからがっくりと肩を落とす。
確かになまじな課題だったら苦も無く終わって反省にはならないだろう。量だけあるのも面倒臭くて十分かもしれないが、それでは見るほうも大変だ。
(だからって……)
「MSのOSの構築なんて普通のアカデミー生が出来るわけないだろ!!」
普通のアカデミー生ではもとより、普通よりも成績のずいぶんと良いシンでさえはっきりいってお手上げだ。これをやるのは専門家――――開発局か整備士だけだ。
「さっきからぶつぶつ何やってるの?」
ひょいっと覗き込まれてシンは思わず画面に突っ込んだ。
最近見慣れた年齢不相応、性別不明瞭な綺麗な顔にその反応は大変失礼だが、だからこそと言う場合もある。この場合はそれだ。
肩越しに覗き込まれているから右頬の横にほのかに赤い唇があって。
さらりと頬に掛かる柔らかな髪に顔を顰める。
(何を思い出してるんだよ……)
またさっきとは違った喚きたい衝動にむっつりとシンは答えを放った。
「……情報処理の課題。」
「へー。アカデミーて結構難しいっていうか面倒なことやるんだね……あ、そこ違ってる。」
「どこが!!」
「ここ。こうして繋いでそっちは外しておいて。」
ディスプレイに映し出された文字を手で示し、理解させるように誘導する。
なるほど確かにそういうやりかたもないではないかもしれない。かなり王道とは違った気がするが。
納得して直してはらまた画面と睨み合ったまま手が止まる。それを不思議そうに見ていたキラはおもむろにぽんっと手を打って何かが分かったという仕草をとった。
可笑しくはないがどことなく嫌な予感だ。
「教えてあげようか?」
ニコニコと笑んでそんなことを言い出したキラに思い切り疑惑のまなざしを向ける。
「なんで?っていうかあんた分かるのか……?」
どちらかといえば”なんで”よりも分かるかどうかがに重点が置かれた問いだったのだが。
「一宿一飯の恩義?」
「一日どころじゃないだろ……」
もう慣れたことだが脱力せずには居られない会話はシンの止まりがちな指をさらに遅くさせる。
「ほらほら、また間違ったよ。」
「うるさいなぁ。」
やれそこが違う、あそこが違う、こうやるんだよと口出しがあったわけだから結果的には教わったことになる。
結果、あっさりとできあがってしまったことに気づいたシンはしばし呆然とした。
だって、だ。
キラがあれこれと口を出し始めてからは一時間かかっていないのだ。自分一人で三日は唸ったのにまったくもって進まなかったというのに。
「詐欺だ……」
「……それどういう意味?」
呆然と呟くシンに胡乱気にキラは問う。
小さく首を振ってからじっと遠く近く眺めつしてシンは言った。
「だってあんた頭良さそうな風にぜんぜん見えない。」
「君……そうとう失礼なこと言ってる自覚ある?」
もちろんそんな自覚があるわけなくてあたふたとフォローする言葉を捜した。―――――――撤回、という一番有効で簡単な選択肢だけは結局最後まで出てこなかったけれど。
――――――――――――翌日、昼。
「で、どうしてこれがここにあるわけ……?」
机の上に置きっぱなしの見覚えのあるフロッピーにキラは呆れたようにそれを取ってくるりと回した。
間違いない。ラベルが貼ってあるでもないフロッピーなんてどれも一緒の気もするが、ここに出してあるということは昨日終えたまま忘れていったという可能性がすこぶる高い。
「今日提出だって言ってたよね……けっこうシンも抜けてるなぁ。」
あんたに言われたくない、と返るだろうということをさらりと呟いて、キラはおもむろにクローゼットを開いた。中に何があるか見てニッコリと笑う。
「ま、一応データにはもぐりこんであるし。」
ちょっとくらい出ても大丈夫だよね、と事情のわりにあっさり肯いて無断借用で軍のエンブレムの入った制服に袖を通した。
***
「あっやばい……」
シュミレーターに手を掛けたまま固まったシンに同期二人の視線が突き刺さる。念のためポケットも探りながらその視線に答えるように気づいてあまり嬉しくもないことを気づいたことを口にした。
「今日期限のディスク忘れた……」
「あーあれうなってたけど終わったの?」
「まあ一応。」
「で、忘れてきたのか。」
けらけらと笑うルナマリアに、事実を駄目押しのように言うレイは呆れたようでもなくシンに止めを刺した。
あーっと声を上げてうな垂れるが、まったくもってどうして今更どうしようもない。
今から寮に戻るのも面倒くさいが出さないわけにもいかないだろう。教官に言えばお説教の一つ二つで勘弁してもらえるかもしれないが出来なかったのだと思われるのは癪に障る。
(今から部屋まで取りに行くとして、……なんとかなるか?)
その代わり昼は抜きかもしれないと憂鬱に沈む。こんなことなら二人に付き合ってシュミレーションルームなどに来るんじゃなかった、と思いつつ。
「これのこと?」
見覚えのあるロムを差し出されて。
「あっそうそうサンキュ……って」
受け取ってからその手から徐々に上げた視線に入った人物に目を見開く。
シンの視線を受けてくすくすと笑いそうな顔で待っていたのは。
「……キラっ!?」
手を引っ張って自分のほうに引き寄せると、地球とは違うとはいえしっかりと重力が設定されているというのにいとも簡単によってきた。
細いからキツそうには見えないが、ほんの少し短い袖が口惜しい。
「なんでキラが制服なんか着てるんだよ。」
「ああ。ごめん勝手に借りちゃった。」
「そーじゃなくてっ!あんた何で普通に外歩いてるんだよっ。」
こそこそと聞こえないように喋りだしたのに思わず高くなった声にも気づかずにじっと困ったように笑うキラを見つめる。
やはりレイは不振そうに眉を顰めただけだが、特に追求することはなかった。
そうはいかないのがもう一人。キラリとルナマリアの瞳が輝く。
「シーン。ちょっと誰よ?見たことないわよね。」
「ルナマリア・ホークさん?」
小首を傾げて答えるキラにどうして知ってるんだ、という言葉が出掛かって慌てて口を噤む。
キラの前で彼女の話をしたかどうかいちいち憶えては居ないけれどシンを知っているならば知っているべき人間ではあった。シンと行動をよくともにするという理由が一つ。赤確定の噂をささやかれる実力がもう一つ。
「君たちは有名だから。」
「でも私はしらないけど?」
「僕は同期じゃないし、そんなに優秀なほうじゃないからね。」
説得力はまったくないが当たり前のように言ってのけたキラを頭は悪くないと判断したようだった。優秀なものの常であるようにルナマリアもそういう人間は嫌いではない。性格上の向き不向きもあるだろうが、とりあえずだからシンたち上位常連の三人がつるんでいるわけだ。
「ちょっとやってかない?」
こつんと機械に拳をつけルナマリアが首を傾げる。
仕草だけを見れば可愛いと取れなくもない行動だが、キラと違って彼女がやると生憎と挑発的としか思えないのが難だった。
「赤確実って言われる実力者が僕で相手になるとは思えないけど。」
「やってみなくちゃわからないじゃない?それともMS戦は苦手かしら?」
小さく息を吐いてキラは了承の意思を示すように小さく肯いてシンの後ろから一歩前に足を出す。
信じられないことだが意外と負けず嫌いで好戦的であることをさすがにシンも知っていた。
妙なところで頑固というか。律儀というか。
(だからってなんでよりにもよってMS戦の挑発なんかに乗るんだよっ……)
他の科目はともかく、MS戦だけは不合法もぐりこんでいるキラが受けてはいけない勝負だというのに。
「ちょっ…キラ!あんたやったことあるのか……?」
「無いけど。なんとかなるよ。」
さっさとシュミレーションの機械に乗り込んだキラに慌てて追いすがる。
ルナマリア相手に負けるのは問題にはならない。シンたちの同期の中ではトップ5には入る腕前だしとなればルナマリアに勝てない相手は当然いるどころか非常に多い。
ただアカデミー生がMSを操縦できないというのは大変問題だった。
操縦できるという考えははなからない。――――――そう簡単に出来たら困る。
なにやら操作を確認していたキラは心配そうに脇でおろおろとするシンにいつもの通りニッコリ笑ってシンには瞬時に理解不可能な断言をする。
「うん、コレなら大丈夫。作ったことあるし。」
「は?」
「ほら、始まるからちょっと黙ってて。」
いつもの笑みとは違う少し得意そうな笑みで気が散る、と一言で追いやるキラにシンの心配は笑い事でしかなかった。
『システム・オールグリーン。スタンバイオーケー。ザク発進してください』
通常の通り管制のアナウンスがシステム上の機体を誘導する。
久しぶりの感覚だ。もちろんそれは現実とは緊張感が違うけれど。これほど臨場感溢れるシステムでもやはり実際に命のやり取りをするわけでもないという安堵はいかんともしがたい。
懐かしいなどと感じているのだろうか。
(そんな日が来るなんてね……)
複雑な気持ちでキーボードで操作すればモニターにバーチャル世界が映る。
宇宙空間想定ではあるが量を打ち落とすタイプのシュミレーターではない。一対一のデスマッチ。
それはもっともキラが得意とするスタイルだ。
コロニー攻めや作戦攻略だったらその攻略法を習ったでもないキラにはもしかしたら歯が立たないかもしれないと一瞬思いはしたが無駄な心配だった。爪の垢ほどの心配ごとではあったが。
ザフトレット。その意味を昔は知らなかった。
アスランが着ていたそれを。イザークが誇りにしていた軍服の意味を。
けれど今は知っている。勿論あの戦時下よりもレベルは下がっているだろう。
強いわけではないけれど、弱くもないことを知っていてなお相手の力に合わせる余裕があった。キラの能力めいいっぱいで相手をしたら勘繰られるし侮られたまますぐに終わってしまう。これから先会うことがあるかは予想できないが詮索されるのは被りたい。
(っていうか困るのはシンなのかな……)
彼女はシンのトモダチで、シンはキラの知り合いで。あれでシンは根は素直そうだからぽろっと零してしまいそうだ。姿を見せないキラよりも、それは非常に簡単で。ありえることで。
(そうなったらきっとまたお別れなんだろうね。)
どことなく寂しい気分に襲われて、一瞬止まったキラの機体の脇をミサイルが通る。
そのバーチャル世界での衝撃に少し息を荒くする。圧迫感は一瞬だ。
息を整える必要もなく、近距離に捉えたザクに向けキラはビームライフルを捨てサーベルを抜く。
――――――――――疑似戦闘はもう始まっている。
ルナマリアは口惜しい、と笑って負けを認めた。
彼女は惨敗、だった。
負けることに慣れていずプライドが低いはずがなく、かなり高いとさえいえるだろう彼女が認めるほど。同じようなレイもシンも認めざるをえないほど。
強いのね、とまんざらお世辞でもなく言ったルナマリアに曖昧に笑うことで通したキラはまだシュミレーター機器を占領していた。
―――――――――余談だけれど、ルナマリアは絶対にキラを年下だと思っている。
ぱらぱらと興味深そうに成績を見ていたキラはふと手を止めてじっと一点を見つめた。
「これって……」
「ああ。アスラン・ザラか……」
キラの指すダントツトップの名前を読み取ってシンはあっさりと答えを口にした。いい加減見飽きたこの名前はそれでも
それは二年前から一向に変わっていない記録だという。他にも彼の記録はいまだいたるところに名を残し、アカデミー以外でも有名だ。
プラントを核から守ったザフトの英雄として。
そんな先輩ではあるが、オーブに亡命したというまことしやかな噂の所為でシンはいまいち好きになれない。憧れるにはオーブが邪魔をする。
「ルナがどうしても抜けないってぼやいてるよ。」
キラはふーんと気のない返事をしてみせるが口元はどこかとらえどころのない笑みを浮かべていて興味がないわけでもないらしい。
「ちょっとやってみてもいい?」
別に良いんじゃないか?と答えれば颯爽と打ち込んだ名前でエントリーする。
今度は対戦じゃないからシンが直接に見ることはできなかった。
「どのくらいいった?」
「ぼちぼち、かな。」
キラは曖昧に笑ってシンが成績を見る前にさっと画面を変える。
そのデータを消すことこそはしなかったが明らかに何か細工をする様子で訝しげにシンは問う。
「何するんだ?」
「隠れてるのにどうどうと名前残しておいたらだめでしょ?」
覗き込んだ画面に映る名前は。
「<nameless>?」
――――――意味は<名無し>。
「じゃあ僕はもう帰るね。さすがに授業に出てたらまずいし。」
思わず去りかけたキラの服の裾を掴んで引き止める。ぴんと張った布がキラをそこに留めた。
人の服をどこか破けるといけないと無理に動こうとはしないで困ったようにシンを見るキラ。
「名無しでもいいよ。あんた此処にいるんだから。」
衝動的な行動の理由はさっぱりわからない。
ただ、今掴んでおかないと消えてしまいそうな気がして。
「ありがとう。シン。」
てらいのない感謝の言葉と綺麗な笑みが照れくさくてすぐにそむけたシンは、その名前がどこに位置づけられたかなど気にすることもなかった。