システムに侵入されたような痕跡はない。
鮮やかとしかいえない手口で、気づいたのは偶然だった。
どんなに腕の良いハッカーでも人の記憶は消せない。ハッキングして情報を引き出すだけならともかくそれに手を加えれば違いは確かだ。それだけのことだった。
おそらく誰も生徒のデータが一部書き換えられたことなど気づかなかったに違いない。
「ちくしょうっ……またかよ。」
教官室でカタカタとキーボードに手を走らせる男は一人ごちてがっくりと突っ伏した。
最近は追跡者が分かったように逆にトラップが仕掛けられている。
今度は何かを書き換えるわけではない。おそらくデータを盗む目的でもないだろう。
まるで遊んで、というように。
「これやってんの生徒だとかいったら俺へこむぞ……」
怪我で前線復帰は難しい、と宣告されたかつての赤服を着ていた彼はとりあえず教えられるくらいに苦手ではないこの科目の教鞭をとることになったのだが。
そんなアスラン並に出来るやつがいたらやめてやる、と呟くオレンジ色の髪の若い教官はいたって本気だった。
moratorium
どうも最近情報処理の授業はついていない気がしてならない。
あのシンの罰課題を含め、ここ数日で課題のレベルが格段に上がった。ついに今日はグループ製作などという面倒な課題になり、こうしてノートパソコンを手に手に頭を付き合わせる場所を探している。個人でやれるものならやってみろと実際教官が言っていたが、実際やる気も起こらない代物で早々に三人でやることを決めた。
「カフェテリアとかじゃ煩いだろうし……実習室はいっぱいだろうし……」
「シンのところでいいじゃん。あんた一人部屋でしょ?」
「なんで……別に部屋じゃなくたっていいだろ。」
「なあに?何か疚しいものでもあるの?」
ルナマリアの切り返しに、シンは一瞬答えに詰まる。
もちろんルナマリアはからかっているだけでいつも通りに『そんなものはない』と言えばじゃあいいでしょ、と押し切られることは確実だった。
なんせ疚しいといえば疚しい。
人一人無断で部屋に住まわせているのだ。ルナマリアが揶揄していることとニュアンスは違えどこれが疚しくなくてなんだという。部屋に入れたくないという点では同じだ。
とにかくキラを隠す前に突然来られるのはまずい。
「自分のところはどうなんだよ。」
「あ〜ら。シンってば女の子の部屋に上がりこもうっていうの?」
「……誰が女の子……」
「やっぱりあんたの部屋に決定!」
「だからなんでっ!!」
「あんたが失礼だからに決まってるでしょ。」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ二人に半歩離れた場所を歩くレイは涼しい顔で一人見ていた。
人のいない部屋はしんとしていて、ほんの少し空気が冷たい。
キラを拾う前の今までと変わらないはずなのに違和感を覚える。
(キラ……?)
どこにいるんだろうか。一目で見つかるようなことがなくて運が良かったが、それはそれで不安が増す。あまりにもそれは存在が希薄だからだろうか。
「へー意外と片付いてるのね。」
「なんだと思ってるんだよ……」
興味深げに見渡すルナマリアに溜息を吐き、それ以上勝手なことをされないように座る場所を指定した。
ベットはキラが整えておいてくれたらしい。行く前は布団がめくれたままだったりずれていたりしていたけれど、今はきっちり枕と布団が備え付けのベットにしっかりと乗っていた。
デスクの上のフロッピーとテキストがやや煩雑においてあるのを手早くどかしてパソコンを起動させる。
一人人間が増えたというが本人さえいなければそんな事実など感じさせない部屋だ。
キラは自分のものをほとんど持っていなかった。
服もほとんどシンの私服を貸している。よくそんなので生活できるよな、と言えば持ち歩くのは邪魔だし、必要になったら買えばいいからと答えが返った。金はなぜかかなり持っているようだった。
「じゃ、さっさとやっちゃいましょってことで……シン頑張って組み立ててね。」
「ルナの方が得意だろ。」
「まったまた。シンのくせに謙遜はやめときなさいよ、腹立つから。」
わけの分からないことを言い出したルナマリアに眉を顰めてみせれば。
「見せてもらったのよね。」
あの課題、とルナマリアは肩を竦めて言った。
ルナマリアのいう”課題”がなんであるかやっぱりすぐには分からなくて頭の中を探る。
今ルナマリアが言い出したのならそう古いわけはない。一番新しいのはたしか……あのキラに教えてもらったやつだ。
確かにアレは難しかったし、おそらくシンだけがやった課題だ。あの日教官の怒鳴り声は一度きりだった。
「……教えてもらったんだよ。」
ルナマリアの視線はレイに移り、静かに首を横に振られるのを確認して不振気な眼差しでシンにまた戻した。
現在の情報処理における成績はレイ、ルナマリア、シンの順に高くなる。
だからシンが教わるとしたら二人のどちらかしかいないはずなのだ。まさか当の教官が手伝うわけがない。
「誰によ?」
キラに、と正直に答えていいものかシンは少し迷って別に良いだろ、と曖昧にごまかそうと試みる。
キラのこと自身はルナマリアもレイも知っているけれど、不法侵入者であることなんてしらない。
ただでさえキラに興味を持っていそうなルナマリアが本格的に調べだしたらばれる確率はぐっと高くなる。たとえハッキング行為を必要としたって彼女の腕ならやり遂げる。だから興味を持ってもらっては困るのだ。
それはルナマリアがどうというわけでなく、きっとルナマリアが誰にも報告しなかったとしてもキラは行ってしまう。
こんな風に簡単に、まるで初めから居なかったみたいに消えてしまえる。
キラの気配のない部屋はそれをシンにじくじくと伝えてきて、何か落ち着かなくなった。
「さっきから落ち着きがないな。」
レイの指摘にえ、と手を止めて彼の方を向けば目線で示された先に視線を落とす。
あるのはどうにも自分の手で、やたらと時計をいじっている事実に気づいていなかった。
「なーに。恋煩いでもした?」
「まさか。そもそもどこに相手がいるんだよ。」
「あたしとか、メイリンだとか、まあパイロット志望は少ないとしてもいくらでもいるじゃない。」
「……気持ち悪いこと言うなよ。」
失礼な、とルナマリアは口を尖らせるがもちろんどちらも冗談で、そもそもそんな間柄ではない。
世間一般で言ってルナマリアは十分可愛いといわれる域に入るだろうが、彼女の性格では同僚もしくは姉がせいぜいだ。
(だいたいルナはどっちかっていうとお姉さま、とか呼ばれそうなタイプだし……)
マユの言いそうなことを思ってふっとルナマリアから視線を逸らす。
「あっ……じゃあキラとか!」
「なっ……」
がばっと顔を上げ、思い切り反応してからつい受け流すのを忘れてしまった、とすぐにシンは思った。
面白いものを見つけたようにキラリとルナマリアの瞳が輝いた。
「軍ってそういうの多いっていうけどあの子なら納得できるわね。キラってそこらへんの女の子よりよっぽど綺麗じゃない。」
「ルナマリアっ!!」
いい加減んにしろ、と悲鳴なのか叱責なのか微妙な叫びで。
からかわれていることぐらい分かっている。その反応がますますルナマリアを楽しませることも。
分かっていても頬が赤くなる。
ルナマリアに指摘されて思い浮かんだキラの唇の感触。
(だからっそんなんじゃないけどっ!!)
事故というには意識的すぎて、意思でというには自覚がなくて。
ただ笑い飛ばすには”キラ”と”キス”はシンにとって存在が大きすぎた。
「キラっていえば……」
ふと真顔に戻ったルナマリアが思案気味に呟く。
「あの子本当にアカデミー生?」
ぎくり、としたシンの内心を示すような肩の動きをルナマリアは見ていなかったしレイも興味のある話になったのかふと顔を上げルナマリアに視線を向けたところだったので指摘されることはなかった。
(やっぱり……キラの馬鹿やろう!!)
やはり姿を見せるんじゃなかったんだ。というかあそこでルナマリアの挑戦に乗る必要性はまったくない。しかもアレだけ動かせるならどうしてもう少し手を抜かなかったんだよっ……
ルナマリアが聞いたら憤慨しそうなことを思いつつ、なんとか取り繕いつつ返す。
「そうだろ。なんだってそんな疑問が出て来るんだよ。」
「ずいぶん成績と実力が違うなって思っただけよ。」
つっけんどんなシンにムッとしたようにルナマリアは言う。
「だって信じられる?あたしにあれだけ圧勝しておいてデータ上では中の上ってとこよ?」
「……あれでか?」
「そ。だから本当はもう軍人で新規兵の引き抜きとかさ。」
「自惚れ屋……」
「なによ。事実を言ったまでよ。」
暗に実力を豪語するルナマリアの言葉は事実だけに脱力を禁じえない。
騒ぐルナマリアといつものようにやりとりを交わしながら。
(ばれなければいいんだ……)
キラを連れてきた日に思ったことを今度は少し違った意味で、もっと硬く心に刻んだ。
なんと消灯時間になる前に課題をやり終えて部屋からたたき出したシンはやれやれと扉のロックを確認して振り返ったところで動きを止める。
いつの間にきたのか――――――――――キラがいた。
「シン?友達は帰ったんだ。」
どうして知っているんだ、とシンは思う。
外に出ていたわけではないのか。扉のロックは今閉めた。ルナマリアたちがいる間に入ってきたなら当然分かるはずだし、では一体どこにいた?
この部屋の中に決まっている。
それもベットは無理。あとはクローゼットかレストルーム。隠れられそうな場所はそれくらいしかない。けれどどれも居心地がいいと思えるものでもなく、そもそもルナマリアたちが来ることなどしらなかったはずのキラがどうしてそこに隠れられる時間がある。
「あんたどこにいたんだ……?」
不安げな、不振げな声。
気づかなかった。どこいも居なかった。
なのに一瞬目を逸らした隙に彼は現れた。
奇妙な薄ら寒さを感じてシンは肌を粟立てる。
キラが怖いわけではない。怖いのは、どこにもいないような彼の存在だ。
「僕はずっとここに居たよ。」
嘘だ、と叫びだしそうな口を押さえて固まったように動かない首を僅かに横に振る。
それに困ったような顔でキラは一歩近づいてシンを覗き込んだ。
「外には出られないでしょ?」
「この前は……」
「えーと。だってあれはシンが……」
「別に俺が頼んだわけじゃないだろ。」
つっけんどんな物言いにしゅんと沈むキラに慌てて言葉を継ぎ足す。
「ええと、まあ助かったけど。」
そうしてやけにほっとした顔が笑う。
よかった、と。
それが妙に透明で、まるで消えてしまいそうで。
「どうしたの?」
もう一歩、今度はシンから近づいて伸ばした手をキラに見つめられて躊躇わせる。
頭……はなし。肩……もなし。腕……もなし。
ほんの少し躊躇わせた手の行き場を決めて、キラが着るシンの私服の裾を放さないように掴んだ。
「……シン?」
どこか不思議そうな。
どこか不安そうな声でキラがシンの名前を呼ぶ。
「キラは此処にいるよな?」
いつのまにか存在が消えることに怯えるほどシンにはキラが必要で。
でもキラにはシンは確かな必要性は感じない。隠れる場所を提供してもそれはかならずしも必要というものではない。きっとキラはもっと安全で自由な場所を自力で確保できるのだ。
だからこんなにも気配が薄い。
「誰かに見つかるか、君がいいって言ってくれる間は。」
明確にきまっているわけじゃない、けれど期限付きの共同生活。
わかっていたはずの答えだ。
『なーに。恋煩いでもした?』
『じゃあ……キラは?』
ルナマリアの言葉がぐるぐると頭の中を回って、最近衝動的な自分の行動に酷くぐちゃぐちゃな頭の中を何かにつなげようとかき混ぜる。
(なんなんだよっ……)
わからない、わかりたくない。
けれど肥大する不安に放したくないのだという明確な意思を持って驚くキラを抱きしめた。